17歳の瞳に映る世界
17歳の…
”17歳”を邦題に入れるのは何故なのか。
そもそも邦題になるとタイトルがダサくなるのは周知の事実。
映画の本質を表すというよりかは、大衆に興味を持たれることの方が重要なのだろう。
17歳に興味を持つ国って一体なんぞや。
わたしは「17歳の瞳に映る世界」が公開になる時「また17歳を押し付けてくるのか」と感じて観る気になれなかった。
原題は本質をついていて良いタイトルだと思う。
「Never Rarely Sometimes Always」
内容的にも観るべき映画であることは明確だし、邦題のダサさは隅に置くことにした。
主人公オータムと従姉妹のスカイラーは生活の中で様々な男性と接点を持つ。
学校の男子生徒や、義父、バイト先の店長、同じ電車に乗り合わせた男、一見親切そうな青年。
彼らの中には典型的なミソジニーや、女性を性的対象でしか見ない人がいる。
全体的な割合なんて知ったこっちゃないが、関わる機会を避けられないのは間違いない。それらの危険を逃れるには完全なニートになるしかないのだ、わたしのように。
最近、女性に向けられる日常的な侮辱や性的暴力を意図的に扱う映画をよく観る。
映画だけでなく、小説や漫画などもそうだ。
これまで当たり前とされてきた日常に蔓延る胸糞話が可視化できる作品が増えた。
わたしのパートナーは、これらの作品を観ると「本当にこんなことがあるのか」「ひどすぎる」などどいう感想を持つ。
女性に対して侮蔑的な目線を向けたことがないからだろう。
そういう男性にとっては、女性の現実は身近なものではない。
しかし実際には、ほとんどの女性やその友達は似たようなことを体験しているのだ。
生活を送る中で身の危険を感じたことのある女性は少なくないはずだ。
しかもそれらを目の当たりにするのは大人になってからではない。
大した知識もない頃に、世界はこんなもんか…と知る羽目になるのだ。
助けの求め方も、相談すべきことなのかも、怒って良いことなのかも分からない年齢で。
そんな時期に大人の卑しさと対峙するのは不条理にも程がある。
受けた傷の癒し方だって分からない。
何年もかけて、本当の優しさや安心や愛を知り、やっとその方法を知るのだろう。
オータムとスカイラーが強い絆で結ばれていることは誰の目に見ても分かる。
スカイラーがなぜここまでしたのか、というのは「お互いになくてはならない存在だから」「親友だから」などと表現するのは勿体無い気がしてしまう。
痛みが分かるから。絶望が分かるから。
この腐った世界で自分たちを信じて生きていくしかないから。
二人は少なからず世界に絶望している。諦めている。
大げさかもしれないが、ある部分ではそう感じているはずだ。
その絶望の中で、オータムが中絶することを自己決定し、実際に成し遂げられたことは希望に値する。それに寄り添うスカイラーがいたことも。
彼女たちも、わたしたちも、当たり前に、絶望なんかじゃなくて希望が欲しいし、安心したい。
他人が抱える痛みを想像する優しさや丁寧さで、世界は少しでも好転するだろうか。