プロミシング・ヤング・ウーマンは至極の復讐映画
わたしは女性の復讐映画が好きだ。
「親切なクムジャさん」「オーシャンズ8」「ハーレイクインの華麗なる覚醒」「The WITCH」「マッドマックス怒りのデス・ロード」「クルエラ」……
挙げればキリがないのだが、どれも最強の復讐映画だと思っている(完全個人的見解)
そして今回、新たな復讐映画が爆誕したわけだ。おめでとう。わたしは嬉しい。
主人公キャシーを演じるのはキャリー・マリガン。
彼女の演技の振り幅には感激と拍手を送りたい。印象が強いのは彼女が20代の頃に演じた「17歳の肖像」という人も多いだろう。
それぞれの場面でメイクや衣装がガラッと変わる。まるで同一人物には見えない。
キャシーはわたしたちと同じ人間です
冒頭、泥酔したキャシーを「家まで送っていく」との名目で自宅まで連れ込んだ男性。
確実な合意を得ずに事を進める男性に放つ、キャシーの「何してんだ」は、重めのフックを食らった気分になる。
最強の女性か?そうなのか?とワクワクしたが、キャシーはちゃんと普通の人間である。愛もあるし、弱さや脆さもある。WITCHではない。
キャシーは傷や痛みを忘れずに抱え続けている。過去を忘れた方が楽だろうし、周囲もそれを望んでいる。過去を抱えて生きる女性は厄介な存在とされてしまうことが多い。
セックスに必要なものは愛の前に合意
序盤はありふれた合意なきセックスへの制裁。バイオレンスな描写はない。物足りなく感じる人もいるようだが、これはエンターテイメントとして消費するべき映画ではない。クソッタレ社会への警鐘。より多くの人に届く事を願う。
日本でもそうだが、女性が泥酔していた場合、何が起こっても仕方ないとされる。実際にそういう認識の男性は一定数いる。同様に女性も「仕方ない、自業自得」と感じる人もいる。だってそういう世の中だから。
強姦や痴漢で罰せられる男性には擁護の声が上がるのに、被害者の女性に対しては落ち度を指摘する世の中だ。
「泥酔していた、男の家に上がった、露出の高い服装だった、夜道に一人で歩いていた、風俗で働いていた」
んなこた1ミリも関係ない。セックスに必要なものは「合意」一択だ。それ以外のカードは出してはいけない。
例え女性が全裸で寝ていたとしても許可なく触れて良いことにはならない、という事を知らない人が多すぎる。
合意なきセックスはレイプだ。グダグダ余計な説明や言い訳は要らない。
それはただのレイプである。
正しく生きることの何が格好悪いの?
「俺はそんなことしない、そんなに悪い人じゃない」「あいつも根は良い奴なんだ」
知っている。本当に悪い奴なんてそうそういない。皆んな穏やかな笑顔を持っているし、普通に働いているし、普通に人を愛していたりする。
それなのになぜ?
先ほども言ったように”落ち度のある女性”の人権が圧倒的に低いのだ。蔑ろに搾取して良い存在とされてしまう。
その女性だって”誰かの愛する人である”という事実を見えないことにするのが得意だ。
キャシーの言葉が印象的だ。
「正しく考えるのは簡単なこと。それが愛する人だったら?」
わたしたちは、社会の風潮や慣習、自分の身近にいる人達のノリや言葉によって、簡単に正しく考えることを放棄してしまう。
正しく考えることは至って簡単だが、正しくあり続けることで、傷つき、疲弊していくこともまた事実だろう。
正しく考え、正しく行動する人が損をするのがこの世の仕組みだ。
喜怒哀楽で怒が圧倒的に軽視されがち
日常の些細な出来事(とされるけど実際は些細じゃない)の中に、男性から向けられる胸糞悪い視線や言葉がある。
歩いているだけなのに上から下までジロジロ見られ「ブス」「あれはヤれない」「ヤれそう」などと評価されるのだ。
それらの下衆さが自分を偉大な男性と示すことかのように、堂々と、楽しみながらしているわけだ。
いかに「女性を性的、支配的に扱えるか」がポイントのようだ。
己の傲慢さと無知さと人権意識の低さに気付いたとき、死にたくなるに違いないが、気付くこともないし、気付かせてくれる仲間もいないので、胸を張って生き続けるのだろう。お粗末様だ。
そう、お粗末な奴らなので真正面から怒って良いのだ。
「よくある事、わざわざ怒る事でもない」と言って押し込めなくても良い。その怒りは正しい感情であり、正しい選択だ。
という基本的で大切な事をキャシーは体現してくれる。
もうあなたは傍観できないはずだ
後半は、現在のキャシーを形成する過去の出来事に対する復讐が始まる。
関わった人全員を復讐の対象とするのが素晴らしい。
直接的加害者の側には、傍観者や擁護者がいる。彼らは罪には問われないが、確かに加害の一部に属しているのだ。加担と言っても過言ではない。
その中には、加害者の友人である男性達はもちろん、周囲にいた女性達も含まれる。男性側に迎合する方が都合の良い場合もあるし、その痛みが”よく聞く話”として受け入れられてしまっている場合もあるだろう。
わたしは常日頃思っている。
被害を受けた人の訴えを否定してはいけない。傷ついた人を一人で闘わせてはいけない。
わたしたちがするべきことは、被害者の代わりに声を上げることだ。
あなたは”罪なき傍観者”になっていないだろうか。
わたしは過去を洗いざらい振り返り、未来の自分に覚悟を決めた。