スーパーノヴァの光に包まれた
大好きな2人がカップルなんて、ほんとありがとね!
プライベートでも親友な2人。かわいいね大好き。
スタンリー・トゥッチが演じるのは作家のタスカー(名前かわいい好き)
若年性認知症のタスカーは、当たり前のことが出来ずに尊厳が失われていく感覚と、大切な人の記憶すら消えていく絶望を毎日感じてる。
タスカーは悲しいほどに自分の病状を自覚してる。
混乱して頭を抱えて、助けを借りるしかない自分を責めながら生きてる。
その姿を見てる側も辛くて悲しくて不安で、コリン・ファース演じるサムと一緒になって唇噛み締める。
うちらは一緒だよ、って気持ち。伝わってるかサム?
癌とか、ALSとかもそうだけど、診断されてから始まる"長いお別れ"
わたしたちがそこに立たされた時、目を背けず向き合えるだろうか。
日々を生きていけるだろうか。
サムは考えて考えまくって、、最期まで2人で生きていくことを心に決める。
反してタスカーは、愛するサムが自分のために生活を変容させていくことが許せない。
「そんなの不公平だ」と言う。
この言葉がすごく印象的。
2人は対等なの。
お互いに作家とピアニストっていう職業で収入を得ていて、家族や友人にも愛されてる。
関係の中に支配や依存が見えない。
これって2人が男性性を持っていることが大きいようにも感じる。
時代は確実に足を進めているけど、対等性を確立できるカップルは現時点では多くはなさそう。
そもそもゲイカップルである必要があったのか、という意見がちらほらある様子。
「対等性」に関してはこの設定である意味が大きいように思う。
でもうちらは歩みを止めないから、いずれジェンダー関係なく対等性を勝ち取るんだけど。
しかし「愛」に関して言えば、ゲイでもヘテロでも、人間でも人間でなくても、なんでもいいじゃあないか、と思っている。
未だに、偏見や好奇の目を持たれることがあるセクシュアルマイノリティのこの映画が、ただ、普通に、世界に存在することが重要だ。
ずっと隣に居ましたけど何か?という顔で。
これは「ゲイカップルの恋愛ドラマ」ではない。
愛を持って愛を与える人たちの映画なのだ。
そこにセクシュアリティは関係ねいのよ。
そういう意味で、この映画が世界にスーッと浸透していくのは、嬉しい時代の前進と言えるのではないだろうか。
議論を呼ぶラストですが、結局タスカーの意思を尊重したのだと、わたしは受け取りました。
一際明るい光を放って一生を終えたのだな、と。
その光が、サムや、大切な人たちへと降り注いで、彼らの一部となるのでしょう。
最後、コリン・ファースのピアノ演奏。
美しさと儚さに胸を締め付けられながらも、確かにあたたかい光に触れたのです。
泣いちゃうよ。